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ヒマラヤ、ポカラ、アンナプルナ、ムスタン(1) [Asias]

 もともと山は好きである。小さなころから両親につれられて日本でも2000m級の山々に何度も足を運んだ経験がある。父親は元山岳部で、長期休みともなれば日本アルプスの山々を登っていたらしい。もともと虚弱体質で運動神経のいいほうではないが、しつこいくらいに何事もマイペースで諦めない性格をしている。あり大抵に言えば粘着質ということだが、仕事に関してはこれがプラスに働くようで、非常に複雑で煩雑な手技でも、ごく単純なものでも、ゆっくりでも丁寧にこなすのだそうだ。とはいえ術後成績はたいしたものだったらしく、未だに30年前の患者さんたちが定期的に検査に来てくれる。後遺症をいかに最小限にするかが問題となるような手術を任されることが多かったようだ。本人は仕事に関して家では何も言わないが、大きな手術では、その数週間前から過剰に神経質になっているのが傍からもわかった。外科系の先生方の勢いのある講義に出席すると、もう5年若ければ外科という選択肢もあったのかもしれないと思う。

 ヴァラナシからの定期バスは、国境の街を越えてネパールへ入った。
 このあたりの断崖絶壁に張り付くように伸びる基幹道路は、日本のODAで作られたものらしく、定期的に休憩のために停車する村々の食堂では常に誰かに話しかけられる状態になった。もともと胃腸系の弱い連れは、ひどい腹痛に加えて頭痛もしてきたらしい。もしかしたら高山病かもしれないが、余計なことを言うと痛みが増しそうにも思えたので、あえて黙っていた。
 すでに標高は2000mを優に超えている。渓谷に沿って数百メートルの崖に左手に、インド製の過剰に装飾されたバスが人々を運んでいく。バスの屋根の上には巨大な荷物置きが設置され、乗客の荷物は基本的にそこに上げられている。ただし私たちを含む外国人は例外で、バス会社はトラブルを避けるために荷物の車内持込を黙認してくれる。
 事件がおきたのは、暑さに乗客のほとんどが意識を低下しつつ、いつまでたっても変わり映えのしない景色を眺めているときだった。誰か驚愕の声を上げたかと思うと、一気に車内が騒がしくなった。

 声の主が自分の連れだと気づくのに、時間を要した。一日十時間近く、気温40度の冷房のないバスで未舗装の山道を移動していれば、大抵の人間は自分の内側に閉じこもって外からの感覚を遮断するようになる。どうも、自分の荷物がなくなったと騒いでいるようだ。大抵こんな場合は、少し周辺を探せば見つかるものだから、ミネラルヴォーターを口に含みつつ、まずバスの運転手にバスを止める様に頼むと、車内を前席から後席までいちいち調べることになった。すでにジャイプールからヴァラナシまでの列車の中で、スイス人の女の子が「私のパスポートがない!」と泣き叫んだ事件を経験していることもあり、すべての貴重品は腹巻のような貴重品入れの中に入れて肌身離さずに持ち運んでいる。連れが貴重品をすべてなくしても、自分の持ち合わせがあるから、近隣の日本大使館に向かうことはそれほど難しくはないし、たかが貧乏旅行用のザックが1個なくなったにすぎない。
 
車内の乗客の多くは、少しも迷惑そうな顔をせずに荷物の捜索に協力してくれた。だが残念なことに、連れの荷物は出てこなかった。鉄製のワイヤーで彼の荷物はバスの手すりに固く結ばれていたのだが、そのワイヤーが切断された姿で見つかった時には、さすがに何と声をかけていいのかわからなかった。実際、彼は私の十倍は慎重な男で、これまでの旅程では大抵私がトラブルにまきこまれ、彼の「やれやれ」という表情とフォローの言葉に何度助けられたか知れない。

 少しするとバスは再度出発した。同乗のドイツ人の母子が心配そうに話しかけてきてくれた。が、どうやら1時間ほど前に停車した村で水を買いに出たときに盗まれたのではないか、という話をしたら納得した様子だった。アジアを旅行すると時々、びっくりするほど綺麗な白人女性の出会うことがある。この母と娘もそうで、ビートルズがインド旅行をしマジカルミステリーツアーを歌たった頃、ヒッピームーブメントの影響下でインドを旅した母親が、自分の娘にも同じ経験をさせたいと考えて連れてきたということらしい。

 次のポカラでザックと日用品を購入すればいい、と連れを慰めつつ、ザックから湿布を取り出して彼の額に張ってやる。気温40度もある国では、脱水が一番怖い。万が一のアクシデントに備えて常に2リットル程度は携行するほかに、私の場合は熱い国を旅するときは冷たい湿布を持ち歩くことが多い。なぜなら額に張るとほんの僅かな時間だけだが発汗を抑え身体の火照りをとることができるからだ。日本から持ってきた貴重な一枚だった。

 次の目的地であるポカラへは、まだ数時間かかる。

 
 

上海(2) [Asias]

 ドミトリーで知り合った小柄な医学生は、私たちと同じ年で、医学生らしい角ばった眼鏡をかけていた。彼は中国南方のシーサンパンナから国境を越えベトナムへ抜ける予定で、旅費をうかせるため、上海で同じ方向に旅する連れを探していた。

 当時、旧共産諸国と資本主義諸国の冷戦が、どうやら前者の経済的行き詰まりから終結しつつあった。そして、旧ソ連のゴルバチョフや中国の鄧小平にならい、ベトナムは改革開放のためにドンモイ政策を始めたばかりだった。

 彼の話を総合すると、長らく米国やフランスが植民地にしており、ベトナムには比較的西洋的な習慣が根付いていること。そのため、格安でおいしいフランス料理や植民地風リゾートを楽しめること。さらに旧植民地住民が残したロレックス時計やらなにやらが豊富にあるという噂が、彼のベトナム行きを後押ししたようだった。

 もうひとつ上海で彼が旅の道ずれを求めていた理由は、中華料理は大皿で供されるのが普通で、一人旅だとわずかな種類の料理しか楽しめないからだった。一緒に旅する相棒がいれば、中華を楽しむ機会が増えるし語学の練習にもなると考えていたのだ。もともと料理が好きで自分でも調理場に好んで立つという彼は、大陸を南下する経路で食べるであろう本場の中華に大きな期待を寄せていた。すでに彼は一週間近く上海に滞在し、その間知り合いになった同宿の外国人と頻繁に料理店に出かけていて、特に野味と呼ばれる野生動物の料理がお気に入りだった。むろん広州や香港が本場だが、上海にも蛇専門の料理店は多い。

 さまざまな蛇の料理法があるが、比較的抵抗なく飲める蛇スープは、さらっとした湯(タン)と、こってりした羮(カン)に分かれる。広東の蛇スープで有名なのは後者である。冬眠前の蛇は脂が乗り美味だが、とくに秋に食べると風邪をひかないという。私たちが中山公園近くの食堂で注文したのは三蛇羮(三種類の蛇のとろみスープ)というもので、数種のヘビの細切りを、キクラゲ、しいたけ、生姜、鶏肉、豚肉などと共に煮込み、でん粉でとろみをつけたものだった。

 日本でも戦前は東京に数百軒の蛇料理店があったというが、2007年の段階では都内に数件しか残っていないという。かつて結核が不治の病だったころは、乾燥させたマムシを磨り潰して煎じて飲むのが良いされ、それなりに需要があったが、最近ではマムシなども入手できなくなり店をたたむケースが多いという。都内に「救命堂」という蛇専門店があるが、その店は美容や薬としての色合いが濃い。それに対して上海の蛇は純粋に美食であり、鶏肉を淡白にしたような味で、さまざまなタイプがある。

 ともかく、私たちは中山公園近くの専門店で蛇のスープを待つ間、点心を数品注文し、中国ビールでそれを胃に流し込みながら、とりとめなくお互いの境遇や大学のこと、さらに日本で待つ彼女のことなどを話した。

 彼は鹿児島に、私は東京に当時の彼女がいて、二人とも頻繁に連絡をしてくれと煩い位に言われていた。お互いに過去の旅行の際、二週間ばかり連絡をいれなかったところ、外務省に捜索願を出されていたという経験を共有していることがわかり、笑いあった。

 もともと彼は第三世界に興味があり、外国語学部でインドネシア語あたりを勉強しようと考えていたという。けれど、理系科目のほうが得意で、なおかつ植物にも興味があったため、微生物学や感染症など勉強しようと医学部に入ったという。

 私の場合は、これといって自分がなりたいと思う職業も進学したいと思う学科もなく、サークルで演劇や映画にうつつを抜かし、将来は会社に勤務するんだろうと思いながら、単位を落とさない程度には勤勉に大学に通っていた。

 当時の上海には、いまだ看板娘が料理店の店先で客引きをする光景が普通に見られた。昼間から若くい女性がドレス姿で普通の料理店や食堂の軒先に立ち客を手招きするのである。最初は違和感があったが、私たちには見知らぬ土地で店を選ぶ手立てがほとんどなかった。わずかに英語が喋れるだけだったから、直感的に店を選ぶ以外に方法がなかったのである。だから、若いなりにそんな看板娘さんたちの手招きに応じて店を決めるようになるのに時間はかからなかった。

 どの店に入るか決め手を欠くとき、彼女らの効果は否定できないんじゃないか?そんな話をしながら、お互い日本に残してきた彼女の話題になったのは、きっと照れくささがあったからに他ならない。


上海(1) [Asias]

 10年前の上海では、いまだ人民服姿の中国人もちらほら見られた。街には旧植民地以前からの古い町並みが生活感とともに残り、多くの高層ビルが建設途上で市内は人々の少しでも生活を向上させたいという熱気でむせ返るようだった。

 有名な和平飯店に程近い港に接舷した、私達の「鑑真号」からは、同じように大陸をこの眼で見てやるぞという若者達と、日本の量販店でよく見られる北朝鮮製の安いスーツをよれよれに着た中国人が次々と吐き出されていた。2泊3日の船内は退屈で、生ぬるいビールピーナッツを飲みながら海を眺めるか、2級船室の2段ベットで横になるしかすることはなかった。一度、カラオケ大会が船内の食堂で行われたが、日本人の多くは参加しなかったようだ。

 警察官のような制服の係官が目を光らせる税関で、東京でとったビザの貼り付けられたパスポートに印をもらい、第三世界特有の冷房のない、何か生ぬるい人の肌のぬめりを感じる待合室を抜けると、埃にまみれた大都市上海がそこにあった。私達に目の前を、タクシーとバスが汚れた排気ガスを撒き散らして移動している。とりあえず、今日の宿を確保するのがバックパッカーの習性だ。それが済んでから街をうろつくことにし、船着場から伸びる中国人の人の流れに身を任せてみる。何人かの客引きが声をかけてくるが、上海語のわからない私達は交渉をすることはできなかった。

 そこから旧市街の中心でもあった外灘まで歩いて10分ほどしかかからなかった。外灘は、植民地時代に列強各国が様々な石作りの荘厳な建築物を残しており、その多くは戦後もホテルやビジネスビルとして利用されていた。旧日本軍が接収し利用していた建物も健在だったが、重々しい石造りの建物には小さな売店や商店がこまごまと入り込んでいて、かつて栄えたであろう外灘は埃っぽいただの大通になったいた。

 かつて東洋のマタハリといわれた女優川島某がオフィスを構えていたビルに私達は宿泊することにした。世代を超えた何かが訴えかけてきたのだろうか。丸の内の銀行本店のような石造りの中には、往時は会議室であった大きな部屋に並べられた鉄製の簡素なベッドがおかれており、1泊20元という安さで宿泊できた。この時代、一般の中国人用の旅社が外国人に開放されておらず、これ以上安いホテルを探すことは難しく思われた。

 私達二人に与えれたベットは、ちょうどオランダから来た青年の隣だったが、彼の両眼には精気が感じられず、それ以降ベットの外にいる彼の姿を見かけたことはなかった。日本人の旅行者と話したくないというより、彼は彼の内側にこもりきりで外のことには何の興味もないように見えた。その内、同じフロアにいる同じような年恰好の日本人と話すようになり、彼と一緒に食事に行くようになった。


1.はじめに [Asias]

 かれこれ10年も前、友人と二人で神戸からイスタンブールまで、徒然に旅をしたことがある。学生時代に何かしようと思い立ち、それは沢木耕太郎の『深夜特急』をそのままなぞった旅だったのだが、誓って旅立つ前は彼の本を読んでいなかった。

 なぜ、アジア大陸を横断するような旅を始めたのかは、今となっては思い出せない。学生時代に、上海、西安、ウルムチ、カシュガル、ポカラ、カトマンズ、シラーズ、テヘラン、イスファハン、バグダッドを経て、アンカラ、イスタンブールへと旅する日々は、たしかに刺激的だったが十分に退屈でもあった。だがその退屈さや単調さが実は旅をするということなんじゃないかと、ある砂漠を移動する夜行バスのベットで思い至ったりしたことが懐かしい。

 当時、旅をしていて感覚が麻痺するほど感じたのは、やはりアジアの貧しさと日本の豊かさだった。日本国内の貧困が恵まれていることを告発されているような痛みを感じた。もちろん、古い石作りの城壁に囲まれた市場や、高山地帯や砂漠にある小さな宿、電気さえ通らない国境の開放された国境、真っ青な海峡、子供の歓声、酒場の狂騒なども思い出深い。

 そして、世界中ありとあらゆるところに、酒と賭け事と女と薬があった。イランのような宗教色の強い国も例外ではなかった。そもそもイランのシラーズは、赤ワインの原料として有名なシラー種の原産地でもある。イスラム革命前は有名な赤ワインの産地だったが、革命後はアルコールは禁忌となったためワインは店頭からは姿を消した。だが市場を歩くと米語で「ワインを買わないか」という声をきいた。一昼夜にして革命はなるが、千年の歴史を誇るシラーズのワイン作りが完全に消えたわけではない。

 そもそも私達の最初の旅程は、東京から神戸へ移動することだいった。当時、神戸は震災の被害を残していたが、まだ見ぬ異国の町に期待を高まらせている私達には別世界のように感じられた。想像力の欠如といえばそれまでだが、私達は他の方向に向いていたのだ。 とりあえず3日間船に乗り辿りつく上海が次の目的地だった。


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